久しぶりに文章を書いてみたくなった。
というのも、これまで散々冬が近づくに連れWhirealbumの季節だ・・・などと呟いておきながら、アニメを見た程度で 話を知らないままだったWhitealbum2をプレイし終えたからだ。
いやぁ、おもしろいゲームだった。
ネット上で見るような、胃が痛くなるだとか、先が見れないとか、そんな感覚にはならなかったが、 主人公やヒロインの台詞を見るたびに、そうだよなぁ・・・となる。
そんなゲームだった。
個人的には、Whitealbum2においては、冬馬かずさが一番強いヒロインだと思う。
この冬馬かずさという通常負け得ない存在に対して、どこまでの不利を負わせれば小木曽雪菜やCC各ヒロインは追いつけるのかという 物語だった。
強いヒロインなんていうのはADVには度々登場するし、実際冬馬かずさの設定も突飛なものはない。(現実的には突飛だが、ADVの文脈で言えばという意)
ここで非常に良い楔として機能していたのが、小木曽雪菜だったのだろう。
主人公と交際をはじめ、友人たちからの祝福を得、世間的な良い家族像を体現する小木曽家と家族ぐるみの付き合いをさせることで、 小木曽雪菜を選ぶことは、善き選択だと思わせるような作りになっている。
CCにおいてはより顕著で、冬馬かずさは物語の登場人物としては降板し、日本から遠きウィーンの地に隔離されている。
言い換えれば、そこまでしないとCCに登場する3名のヒロインは勝負にならないのだろう。
ゲームをプレイしているユーザーのほとんどは、分岐のない一直線のICを終えたあとにCCに突入するわけだが、 小木曽雪菜のルートは最後にやったことだろう。
ゲーマーなら当然そうすべきだし、そのように設計されている。
そしてこの作りがまたうまく、CCの3名のルートを通じて実質的に小木曽雪菜を裏切ってきたプレイヤーがやっとの思いでCCの小木曽Trueをみたあとに、 Codaに突入する展開は、もはや憎い以外の感情が湧いてこない。
CCで小木曽雪菜以外のルートをプレイしているときの小木曽雪菜の慟哭は、どこまでいってもつらいものなのだ。
道徳的に道義的に正しい小木曽雪菜を、どんな理由ならば裏切れるのか。
どんな理由ならばお互いが納得し、後腐れなく前に進めるのか。
結局そんなものは存在しないんだよね。
だからこそ、小木曽Trueには意味があるし、Codaに重みが増すのだ。
そんな、ICでは勝負にならなかった小木曽雪菜も、ICからCCまでの3年とCCからの2年間を通じて IC時代以上の世間的な承認と、積み上げてきた年月という有利があるのだ。
ここで満を持して再登場する冬馬かずさという展開は、正直ドキッとさせられた。
事前のネタバレをほとんどくらうこともなかったので、CCのあとにCodaがあることすらしらなかったのだ。
いやぁ、まじかと思ったものだ。
Codaの展開は、浮気Endからの不倶戴天の君へが最も現実的というか、3人の物語の幕引きとしては妥当に思えた。
雪菜Trueはあまりにもかずさがかわいそうに感じてしまうし、かずさの物わかりの良さというか、これで納得するんだったらこれまでの5年はないんじゃないのかと思ってしまう。
かずさTrueは強すぎる冬馬かずさのEDとしては納得ができるものだったが、冬馬かずさのヒロインとしての強さにちょっと面食らってしまう。
世界のすべてを敵に回しても、、、なんて使い古されたようなセリフがあるが、実際にその選択をされてしまうと、まじかとなってしまう感じだ。
勝負になってないじゃんというかね。
他のADVとWhitealbum2が明確に違うところは、ルート分岐までにヒロイン達のフラグを立てるシーンがあまりないところだと思う。
もちろんまったくないわけじゃないんだけど、基本的にエピソードというか行動選択に自由はなく、そのシーンの解釈が違うというか。
だから、小木曽雪菜を選ぶときにも、冬馬かずさを選ぶときにも、基本的には積み重ねたものは同じなわけで、だからこそCodaで冬馬かずさは選ばれるわけがない。
前述したとおり、小木曽雪菜には強すぎるアドバンテージがいくつもあって、冬馬かずさには致命的な空白の5年間という不利がある。
それでも、春希にとっての世界すべてを敵に回しても選ばれてしまう冬馬かずさとは何なのだろうと思ってしまう。
ジャックドールやガイアフォースが必死に作ったハイペースの流れをもろともせず、手応え抜群に好位抜け出してそのままレコードで駆け抜けてしまうイクイノックスのようだ。
そう思うと、小木曽雪菜はドウデュースに見えてきた。
全てを蹴散らす天賦の才、冬馬かずさ。
0 コメント:
コメントを投稿